千葉大学大学院 人文科学研究院の一川誠教授に、専攻とされている人文科学に関するインタビューを行いました。人文科学に関して学びを深めたいと考えている方や、一川誠教授と同じく人文科学を専攻としていきたい学生さんは、ぜひ最後までご覧ください。
一川 誠教授のプロフィール
千葉大学大学院人文科学研究院教授。山口大学時間学研究所客員教授。大阪市立大学文学研究科後期博士課程修了後、学術振興会特別研究員、カナダYork大学研究員、山口大学工学部感性デザイン工学科講師・助教授、千葉大学文学部助教授・准教授を経て現職。専門は実験心理学。実験的手法により人間が体験する時間や空間の特性、知覚、認知、感性における規則性の研究に従事。博士(文学)。日本基礎心理学会理事、日本視覚学会幹事、日本時間学会会長。著書に『ヒューマンエラーの心理学』(ちくま新書)、『「時間の使い方」を科学する』(PHP新書)、『時計の時間、心の時間-退屈な時間はナゼ長くなるのか?』(教育評論社)、『大人の時間はなぜ短いのか』(集英社新書)など。
1. ご経歴と専攻分野
大阪市立大学の文学部人間関係学科、大学院文学研究科前期博士課程で,主に人間の立体知覚の基本特性やその可塑性について調べることで研究をスタートさせました。文系の学部、大学院の所属でしたが,博士課程の大学院生として,つくばの通産省工業技術院製品科学研究所と京阪奈学術研究都市のATR人間情報通信研究所で滞在研究するなど,立体表示技術開発などのものづくりに関連した研究にも携わるようになりました。学位取得後,学振の特別研究員とポスドクとして,カナダのトロントにあるYork大学のCentre for Vision Researchでの3年間研究を行いました。その後,山口大学工学部感性デザイン工学科に講師として職を得ました。
体験される空間や時間の特性について,実験心理学的手法で調べています。立体画像の表示に関する研究から始めたのですが,平坦な画像(実際の刺激)の観察で立体感(知覚)が得られる仕組みについての解明のため,実物と知覚のズレである錯視を調べました。その後、空間の錯視だけではなく,時間の錯視についても研究範囲を広げ,また,視覚だけではなく聴覚や体性感覚も扱い,実際の刺激の特性と体験される時間や空間とのズレ方について体系的に検討してきています。また,さまざまな画像や音を視聴すると独特のインパクトや感性効果が生じることがあります。そうした感性効果の特性や喚起方法、感性反応が知覚認知に及ぼす影響についても調べています。
2. 専攻分野である人文科学を選んだきっかけ
古い話になりますが,私の学んだ大学では,多くの人文領域の中から2年進級時に専門分野を決めるという制度でした。大学に入学後,1年をかけて専門分野を検討できたのは自分にとってはとても有意義でした。
もともと心理学に興味があったので,心理学を学べる大学を探して,大阪市立大学の文学部に入学しました。当初,関心を持っていたのは,カウンセリングの基礎などを学ぶ臨床心理学でした。しかしながら,大学に入って一年生としていろいろと学ぶうちに,自分の関心が,個人の心理的問題を解決することではなく,人間一般の本質的な特性を理解することに向いていることに気がつきました。
そこで,2年進級時の専門分野の選択の際,改めて自分の志望を考え直すことにしました。当時のフランスの精神分析を牽引していたジャック・ラカンの思想を学べるということで,仏文と,人間について実証科学的に検討できるということで,社会学と心理学の3つが候補でした。ラカンの思想は当時の日本でまだそれほど研究されていなかったので,興味深い研究テーマと思いました。
しかしながら,自分の関心はラカンが何を考えているのかということではなく,科学として人間を理解したい,科学者として人間のまだ知られていない特性を見出したいということだと考え,選択肢から外しました。社会学は,人間の多様な社会的活動を研究対象とする,様々な可能性のある科学的な研究分野だと思いました。しかしながら,自分の関心は,個人が集まって作る社会の特性ではなく,個としての人間がどのように感じ,行動するかであるように思いました。それで,改めて実験心理学の講座に進むことにしました。
結局は入学当初も考えていた心理学を選んだことになります.しかしながら,その方向性は臨床的なものから基礎科学的なものへと,大きく変わることになりました。今も,個としての人間がどのように感じ,行動するのかを検討することで,科学でどこまで人間を理解できるか,見極めたいと考えています。
3. 人文科学の主な実績
交通事故などの際,物事がスローモーションで展開するように見えたことが報告されることがあります。「タキサイキア」という呼ばれる現象です。最近の研究成果としては,この現象の基本特性を明らかにしたことが挙げられます。タキサイキア現象については,実際にスローモーションで見えているわけではなく,強い感情反応によって多くのことが記憶されることで,錯覚的に時間が長く感じられているという説が提唱されていました。
ただし,そうした結論を導いた先行研究には,いろんな穴があるように思えました。そこで,当時,学部生だった小林美沙さんと,そうした穴のないオーソドックスな実験をして,強い感情が喚起された際,リアルタイムでスローモーションに見えることはないのか調べる実験を行いました。いくつかの実験の結果,画像観察で生じる程度の感情反応でも,視覚の情報処理を早められることを確認しました。また,この現象を引き起こすためには,必ずしも恐怖のようなネガティブな感情は必要ではなく,喜びのようなポジティブな感情でもいいことを見つけたことも,重要な成果だと思っています。
4. 人文科学から日々の生活に活かせること
基礎的な心理学にも様々な研究対象があります。その中でも,特に,実際に見ているものと体験されるものとがずれている錯視,錯覚の検討を専門として選びました。映像や音刺激の視聴で得られる知覚体験を通して,人間がどのように存在しているのか理解できると考えたからです。まだ誰も見つけていない,新しい現象や人間の心の特性について発見したり解明したりできる可能性がある分野ということで,とても魅力を感じました。
科学的な仮説の検証を,自分の目や耳で直接的に行うことができる点は,知覚認知の研究における方法論の特権的特性だと思っています。たとえば,どのような要因が錯視を引き起こすのかについて仮説を立てた場合,その要因を操作した画像を観察することで,直接的に仮説の成否を自分の知覚体験を元に評価できます。
また,研究の対象が,自分自身のことに関わることである上,日常生活の至るところに研究対象があるというのも,この領域の研究をしていて,とても刺激的なところだと思います。
5. 人文科学に関心のある方へのアドバイス
人間については,私自身もしばしば驚くほど,まだ理解できていない事柄,知られていない特性がいっぱいあります。自分自身の特性を知るということは,その潜在的危険性を知るだけでなく,可能性を知ることでもあります。しかも,その研究成果を自分自身で直接的に体験できるという点も魅力的な研究領域と思っています。